30代の10年を急ぎ足で写真と振り返る

5月25日は私の誕生日、明日で40歳を迎えます。10年前、30歳はJICA-JRFUスクラムプロジェクトの初回派遣でスリランカのビーチで迎えました。当時は10年後にどうなるか予想も出来ませんでしたが、いまこうして40歳を迎える直前になり「まだまだ未熟だな・・・」と感じます。多くの人がそうかもしれませんが、やっぱり振り返れば後悔の方が多い。それでもこの10年はいくつかのチャレンジと多くの経験がありました。このブログはラグビーに関する話題を書くので、女子ラグビーに絞って振り返ってみます。

YOKOHAMA TKMでプロコーチになることが出来た30歳

スリランカから6月末に帰国、派遣活動報告を終えました。まだJRFUのHPに当時の記事がありました、こちらそしてご縁があって7月にラグビー日本代表の菅平合宿にサポートスタッフで参加し、当時の日本代表HCのエディーさんと1週間ですが、一緒に仕事ができたことは本当に貴重な経験でした。当時の強化合宿レポートは、こちら

そしてその時にお世話になったスタッフの方からのご縁で、医療法人を母体に持つ女子ラグビークラブ、YOKOHAMA TKMにコーチとしてお世話になることが出来ました。ラグビーを仕事にする、そんな夢が叶いました。また夏の札幌の大会では、市内に住んでいた両親に応援に来てもらいました。TKMでのコーチ1年目は本当に経験不足もあって学びが多く、初めての女子ラグビー指導は男子との違いに戸惑って、選手には迷惑をかけました。なかなか良い結果をもたらすことが出来ず、充実した時間の中でも反省ばかりでしたが、当時の選手、スタッフ、そしてお世話になった病院関係者の皆様には夢を叶えるきっかけをいただき、本当に感謝しています。そうしてコーチとしての経験不足を感じていた時に、JICAの募集があり、ウズベキスタンにチャレンジすることになりました。

国際大会へのチャレンジとなったウズベキスタン派遣

この派遣を前に運がよかったのは、現地から女子ラグビーの指導経験がある人を求められていたこと。なので割とスムーズ(?)に決まったというか、応募したら行けるだろうと思っていました。まさか30歳になってロシア語を勉強するとは思いませんでしたが、振り返るとたくさん書きたくなることがあって簡単にまとめられず(苦笑) 活動としては4月と5月は男子15人制、6月から10月は女子7人制の代表チームをそれぞれ指導し、どちらも結果的には過去最高の結果を出すことが出来ました。今でも当時の選手とはSNSで繋がっていますし、女子のキャプテンは毎年誕生日にメッセージが届きます(どこで自分の誕生日を知ったのか…)し、この派遣で国際大会へのチャレンジという大きな経験をしたことが、今の自分にも影響を与えています。派遣から帰ってきて、ラグビーマガジンの巻末インタビューに掲載(表紙はリオ五輪出場を決めたサクラセブンズ)されたのは良い思い出です。

東京フェニックス、そして千葉ペガサスで監督、コーチを務めた3年間

そして2016年、TKMの頃からお世話になった東京フェニックスの四宮さんに声をかけてもらって、東京フェニックス、そして千葉ペガサスで、監督、コーチとして再びラグビーを仕事にすることが出来ました。2018年までの3年間で他のチーム含めた女子ラグビーの関係者、そしてサポーターとたくさん知り合うことが出来たと思います。またコロナ禍の前でフェニックスでのタイやイタリアへの海外遠征もあり、本当にありがたい経験でした。

この3年間も簡単に振り返るには色々とありすぎて、1年目は太陽生命WSSの東京大会で合同チーム(フェニとラガール7の選手10名)をボウル優勝(15チーム中9位)を達成したり、千葉ペガサスを太陽生命WSSに昇格させたりしました。あとは15人制でもTPA(TKM、フェニックス、アルカスの合同チーム)で日本一になった年だったかな。2年目は太陽生命WSSへのチャレンジで春は厳しい戦いでしたが、秋は海外選手と怪我から復帰した選手の活躍もあって、台風が迫ってきた保土ヶ谷大会で下馬評を覆す3位になり、無事にコアチーム残留を達成。3年目はさらに上を目指すチャレンジでしたが、選手の怪我、自分の力不足もあって、最後まで勝ち癖みたいなものを作れず、入替戦で3位となり降格。プロとして結果を残せなかった責任もあって、お世話になったフェニックス、ペガサスを離れることにしました。

2019年からは現場を離れて大会運営に関わりました

そして2019年からは仕事としてラグビーに関わることはなくなり、一ファンとしてスタンドから応援したりしていましたが「白馬さん、暇してるでしょ」みたいな感じで声をかけてもらい、女子の関東大会の運営に関わることになりました。まず大会参加チームの調整(合同チームの組合せなど)、事前のミーティング、試合2日前の選手登録の受付、当日のスケジュール作成などを重ねて、大会フォーマットを整えることに取り組みました。またこのブログを始めたのもこの年の関東大会の時期だったと思います。

これは仕事の都合で関東を離れる2021年の12月まででしたが、加えて2020年からはコロナ禍での実施に向けて、どう感染防止対策をするか、試合の撮影をどこまで許可するか、などなど大会運営側と会場運営、参加チームとのやり取りが増えて、取り組みは大変な面も少しありました。それでも協会の関係者含めた大会実行委員会でのやり取りを重ねて、大会を良いものにする試みは面白かったです。力不足で参加チームに迷惑をかけたところも多々あったと思いますが、それでも今の大会運営に繋がるフォーマットを作る一端を担えた自負はあります。最後はサプライズで楯を用意していただき、試合後の選手皆で送り出していただきました。

2022年からは大阪で、そして今は三重に来て8か月くらいになりますが、1ファンとしてスタンドから応援する立場になりました。鈴鹿での試合や、静岡エコパでの試合は気楽に行けますし、先日の熊谷大会のようにバスで長距離移動するのも楽しんだり、そこで見たことや感じたことをブログで書いています。この前熊谷であった知り合いの選手たちからは「白馬さんがラグビー以外の仕事をしているのが想像できません」と言われて、苦笑いでした。たまに選手から「ブログ読みました」と聞くと、恥ずかしいところもありますが、今後も思っていることを正直に伝えることを、もう少し続けていこうと思います。

30代の10年間を振り返ったところで、次回は40代に向けてのことをかければと思います。長文お読みいただきありがとうございました。